(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
トップへ戻る
最終回
初めて送り届けた車いすと贈呈式

10月8日贈呈式の日が来た!
マレーシアと日本の時差は余りない。
午後2時を過ぎた、私は思った。

「贈呈式どうなったかな!
今頃の時間はもうおわったころかな〜」

などと思いながら、
「海外に子供用車椅子を送る会」
のことを回想する。

森田祐和の悪性リンパ腫の発病から車椅子を
送るまでの物語も今回がいよいよ最終回となる。
筋書きなしでドラマを制作した私自身も、
意外な方向と展開に我ながら驚がくの思いだ。
全てにおいて偶然とは思えないような、
何かに導かれるものを感じる5ヶ月だった。

中でも5月の末に八王子市民活動協議会で
森田君と片野氏の出会いは劇的だった。

片野智之

昭和12年生まれ 
(同年代の有名人、小林旭)
薬家電メーカー在籍中、
役16年間海外勤務で
アフリカ・ヨーロッパ・アジアの
現地法人で活躍された。
退職後、文部科学省の公募から選ばれて、
国際交流ディレクターとして
1997年から4年間マレーシア異文化教育、
国際交流、国際社会への貢献に勤めた。

また、マレーシア在任中に、
クアラルンプール養護学校と
日本人学校の親睦交流の基礎を築き、
養護体験やボランティア活動を
積極的に推進させ、日本とマレーシアの
国際交流を親近感あふれるものにした。
その貢献度は計り知れないものである。

その後、日本に帰国、
現在町田市に住居を構える傍ら、
ふる里郷土の茨城県に一千坪ほどの
敷地内に畑と家を開放、シニアが対象で、
農村体験里山保全と環境問題にとりくみ
地域との交流、町おこしの参加など、
ボランティア活動を支援協力している。


そして現在、マレーシアとの交流を
ボランティアとして
留学生の支援や青少年の交流のため
のホームスティや相互訪問の
コーディネーター等
多くの活動をされ、
車椅子をマレーシアに
送るパイプ役を引き受けて、
海外に子供用車椅子を送る会
顧問役に就任、同会の名ずけ親でもあります。

他に数多くの実績は数え上げたらキリが無い。

ここで物語の展開を片野氏のサイドから追っていきます。

ファウジアさん

マレーシア養護施設に
子供用車いすは無い。

2003年7月マレーシア養護施設校長ファウジアさんが、
大阪のフォーラムのため来日。
片野氏が、世話人を務めることになる。
せっかく日本に来られたファウジアさんのため、片野氏は観光案内の準備をして出迎えたのだが、ファウジアさんは日本の養護施設、視察を希望した。
急きょ、大阪から東京都町田市に移動、町田の養護施設を視察、そしてそこでファウジアさんが見たものは・・・

使われていない、廃棄処分寸前の子供用車いすだった。
ファウジアさんは片野氏にこの車いすをマレーシアの施設に送ることはできないかと話をする。
その場で約束できない話に片野さん絶句、しかし、いずれ何とかしなければいけないと思った片野氏でした。

それから月日が流れ2004年5月、青少年交流会ディレクターとしてマレーシアでファウジアさんと久々に再会、話はまた車椅子の話に・・・
ファウジアさんは運搬費は施設で負担してでも車いすが欲しいと切実に話された。
しかしまたしても片野氏が約束できることは
何もなかったのでありました。
それは2004年5月のゴールデンウイーク中の
ことだった。
片野さん帰国後、これは自分が車いすを送る
団体を設立しなければと重責を感じていた数日後に、
八王子市民活動協議会で森田祐和君を紹介される。

運命的な出会いにより、計画は一直線に
マレーシアに爆走する。


10月8日午後2時15分、メールが入る。 マレーシアの日本人学校校長室賀先生からだった。 早速メールを開けてみた。

幡垣 様
 
お久しぶりです。以前、多摩辺中で、ゲストティーチャーとして、和菓子作りのお話をしていただきました。
その切は大変お世話になりました。
現在クアラルンプール日本人学校の校長をしております。
片野さんは、本校の国際交流ディレクターとして3年前まで勤務されていました。
そんな関係で、今回のお話をお聞きし、・・・・先ほど、私でよいのかと思いながらも、
代理の代表として出席してきました。
とても喜んでくだされ、新聞社も2,3社取材に来ておりました。
とりあえず、写真を数枚送ります。
圧縮しての送り方が良くわからないので、
何回かに分けてみます。それでは、
緊急報告まで。
              クアラルンプール日本人学校 
                    校長  室賀 薫

次々に送ってくる写真! 私は返信メールを送った。

室賀様
お久しぶりです。
2002年11月、多磨辺中学の校長室でご馳走になったコーヒーの味が忘れられません!
給食も上手かったです。
でも私はかなり緊張していました。
2003年11月総合学習ホームページ制作し、
当時のことを
書き記したファイルをそのまま
茶の子HPにアップしてあります。
先生がマレーシアに行かれたことは、
YK先生から伺っておりました。
でも、記憶の片隅にあり、マレーシアに
在住されていることはわすれていました。
 
記憶を呼び覚ましたのは、片野氏がパイプ役になって下さった、車いすをマレーシアに送る話です。
色々お話ししたいことは山ほどありますが、
養護施設車椅子贈呈式をしていただきましてありがとうございました。
先生は車いすプロジェクトの最初から参加しているわけではありませんが、「海外に子ども用車椅子を送る会」は今始まったばかりです。
従って今回の参加は極めて早い協力者であり、
わたくしの感覚で考えると、贈呈式は代行ではなく
室賀先生は現地でしっかりと施設の子ども達にセレモニーと共に車いすの贈呈式を任されたメンバーの一人でありますので
つまり、身内ですよ、身内!
どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。
さて!長い話をしてしまいましたが、写真ありがとうございます。
まってました!感動!涙!ブイサインと雄叫び!ガッツぽーず!
うれし〜・・・写真から現地の様子が伝わってきました。
やって良かった。
写真あるだけ送って下さい。
感動を会のみんなで分かち合いたいと思います。
「もう車いすは入らない」と、いわれるまでおくったろ〜ぜという感じです。
                         幡垣

10月8日
マレーシア クアラルンプール養護施設において、
贈呈式!

16台の車いすがマレーシアに着港、
マレーシア在住の、親愛なる友人、
そして「海外に車椅子を送る会」のメンバー
室賀薫さんの手によって車椅子が
施設の子ども達に贈呈された。
(室賀薫・マレーシア日本人学校校長)
10月8日午後2時、日本は台風接近により、
激しい雨の中、マレーシアは好天に恵まれたようです。
そんな最中でありました。室賀さんから続々と添付により
写真がリアルタイムで送られてきました。

自然に恵まれて
空気も美味しそう!

マレーシア
養護施設中庭
左の方が
マレーシア日本人
学校
校長・室賀薫氏

中央の方が
養護施設事務局長
ムヒンダ氏


右はじで握手を
している人が
スパスティック
養護学校の
プレジデントにあたる、
ダトーラム氏


取材も凄かった
見たいです!
ダンスで
パフォーマンス
楽しそう〜
10月8日は
車いすと一緒に
幸せを運んだ

こどもの日なのだ!


親の会でも
出し物を披露。
リコちゃん、
君の車椅子
マレーシアで
活躍してます。

よかったね!
宝物が到着した!
君たちには
未来があるから・・・

日本人学校
コーディネーター、
ダニーさんです。
これからも
子ども用車いすを
送るからね!
生きてる証は
みんなが平等に
過ごせる世界を
創造することから
はじまる。
誰もが健常で
生まれてくる
わけではない世界!
健常な人間は
ハンデキャップ
を背負った人を
助けるために
生まれて来たので
あって、好き勝手に
生きるために
生まれて来たのでは
決してないのだ。

初めて送り届けた子ども用の車いす、
わずか16台を送り届ける為に、
会員が一つになってがんばった。
初めて送る、記念すべき車いすだから、
メンバーみんなで埠頭まで、爆走した。
2004年8月28日午前0時集合、
午後2時ファミレスで食事をする。
朝8時30分、輸送先、大和グローバルに到着、
9時にコンテナを見送った。
発足して2ヶ月余りの事だった。

おまけ

爆走ことぶきや物語を書終えて・・・
2004年5月1日最初の一行を
書き始めながら
物語のタイトルが決まらないでいた。

病棟内での会話から始まるこの物語は
いかにもテーマが重く、読んでる人が
イヤになってしまわないか・・・
それが心配でならなかった。

従って何となくだが景気の良いタイトルを
付けて、自分を元気づけ、
森田君と電話で長話をしながら
ありのままに書き記し、いつの間にか
ホントに車いすを送ってしまいました。

おまけに贈呈式まで
しっかりやれてしまい、
出来過ぎもいいところだと思っています。

でも、完結に至り森田も
幡垣・会員一同ほっとしています。
森田佑和
「これだけぶち上げちゃって、
送れなかったら
やばいんじゃ〜ね〜の!」
幡垣誠
「だよな!」

「海外に子ども用車椅子の会」
2006年5月2日NPO法人になる。

<爆走ことぶきや物語>
最初に送った16台の
子ども用車いす
作者・幡垣 誠

(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
トップへ戻る