爆走ことぶきや物語

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2003年一月末日のことであった。
幼なじみの清水由美子(幼なじみの同級生)さんがやって来て一報を告げる!

幡垣
いらっしゃいませ〜、あ!由美子じゃねいの。
どうしたんだそんな憂鬱(ゆううつ)そうな顔しちゃって何よ、いったい・・・

清水
祐和君、癌(がん)になったみたい。

幡垣
何だ、いきなり・・・
そうか〜、う〜ん・・・俺たちのも、これから年齢的にいって、色々とな〜
それでどんな病名で、何処に出来たのよ。

清水
まだ良く分らないらしいんでけど、リンパ腫っていってた。
何でもお腹が凄く張って、変だったらしく、国立の立川病院に入院したらしいよ!
切るっていってたけど、誠君、どうしよう?

幡垣
国立・立川病院なら、おれんとこから、車で10分ぐらいだな!
こういう時はすぐすっ飛んでくか、見守るかどっちかなんだよ。
下手なおしゃべりしたり、気休め言葉しかかけられないのだったら
何もしないで、様子を伺う方がましかもしれない。
とにかく分ったよ、知った以上は見舞いに行って見るよ。
由美子も行くなら一週間以内にすぐいった方がいいよ。

清水
うん、わかった。

こうして私は、病院へ向かったのである。
昭島市から国立・立川病院は車だと近い、10分もあれば
いける距離にある。
病院に向かう車の中で、彼のことを考えてみた。

本名、森田祐和、人は彼のことを爆走男コトブキヤと呼ぶ、
なぜかといえばしゃべり出したら、止まらない性格、
歯切れがよすぎて爆走するからだ。
組織では、はっきりと、明瞭に話しをしすぎて、はみ出してしまう、
今の日本では、何かと嫌がられるタイプだが、
国際社会では当たり前のことである。
彼とのつきあいは、保育園のときからで、えらく長〜い付き合いを
しているようだが、
20歳代のころは、まったくと言って良いほど、交流は途絶えていた。
しかし33歳の同窓会で、再開する。
話しを戻し、同級生は彼のことを誰もが、
もりっちゃんと言っている。
5才からずっとである。
仕事は、ことぶきやという貸衣装屋で最近経営が傾いて、
ピサの斜塔状態だと彼は笑って言う。
それを笑えるほど茶の子(和菓子屋)の経営も、ここ数年、楽ではない。

森田君には4人の子供がいる。
最近の家族では子だくさんファミリーといえる、
4番目の子(2003年)小学3年生にハンデ(肢体制不自由児)があり、
その子は車いすで養護学校に通っている。
送り迎えは、家族や養護施設でしている。
元々にして、楽ではない状況にあり、そして今度の病魔であった。

病院到着!
あ〜久しぶりだな〜・・・
俺のおやじも癌でお世話になったっけ。
あと半年から一年の命と言われたのに、
あれから4年たったけど、まだしっかり生きてんだよな〜あのおやじは・・・
しかも、治ってしまいました。(ご参考までに・・・国立癌センターで)

ほんと、きれいな病院だな〜ここは、
エレベーターで7階へ、
ここか、森田と書いてあるな!
部屋へ入ったが、いなかった。
探してみたが、見つからない。
ロビーのあたりにもいない。
変だな、家に帰ったかな?出直すか!
エレベーターが開いて目の前にいた男、
爆走男ことぶきや祐和であった。

森田
いや〜まこちゃん、何よ、早速来てくれたの、わり〜な〜

幡垣
(何だか元気そうだな〜と思う。)
どこいってたんだよ。帰るところだったよ、まったく。

森田
今な、奥方と子供が来ていて、送って行ったところだったのよ。

幡垣
すれ違いか〜、ま〜ちょっと、話しをしよう。
いったい、どんなことになってんのよ。

森田
リンパ腫って言う癌らしいんだけど、そんなに悪性でもないらしいんで、
オレ先生に切ってくれって頼んだんだ。

幡垣
何の種類かもわかんねいのにか?

森田
だからさ〜その切った腫瘍を調べて対策を立てようってことなのよ!

幡垣
そういうことか。
(私は思った。リンパ腫に悪性も良性も無い、全部悪性だと。)
前から何か変な兆候は無かったのか?

森田
何しろ、拳、一つぐらいに腫瘍がでかくなってんだ、
周辺の内臓を圧迫し始めて痛くなって気がついたんだ。

(私は思った、なんて、のんきなやつなんだと、
すでに、この時点で彼の癌は末期に達していた。
たく、バカタレが・・・)

ここで悪性リンパ腫について簡単にお話しをいたしましょう。
悪性リンパ腫
先ず血液科の癌であります。
普通の癌なら切ってしまえば、
何とかなりますが、この癌は血液の
リンパ球が腫瘍になる、
たちの悪い癌です。リンパ腺は、
人間の体の血液中(白血球)
の免疫細胞でありまして、
ウイルスなどの侵入を阻止する
大事な役割を果たしています。
このリンパ線で生産されたリンパ球が
まだ未成熟な段階で、
突然変異して、無限大に癌化した
白血球を増やし続けて
最後は命を奪ってしまう病気が、
リンパ性白血病です。

それに対して、リンパ腫は
正常な白血球をリンパ腺で
生産したもののその後腫瘍の様相を司り
癌腫瘍になり、命を奪う病気です。

治療方は、白血病の治療法に
類似する点が多く、抗ガン剤も
同様のものが、使われています。
しかしまだ確立されていません。

悪性リンパ腫は大きく分けて2つの
タイプB細胞形と
T細胞形があります。B細胞形は、
進行が遅く、T細胞形は進行が早いです。
日本人の9割は、T形だそうです。
更に細かく分析すると、
いくつかの新型があるようですが
国立がんセンターでないと見つからない
可能性が高いと思われます。

これだけの基本知識を私が
知っているには訳があります。
実は、私の息子が2002年2月に
急性リンパ性白血病になり、
一年間の入院生活の後に退院して
当時維持療法中でした。
そして小児病院入院中には、
悪性リンパ腫の子供が
数人同病棟で入院していたからなのです。

話を戻し、国立・立川病院内で・・・

森田
まこちゃんさ〜自分がこんなことになるなんて夢にも思わなかったよ!
でも、一回切って、腫瘍を取り出して調べてみないと何とも言えないって
先生も言ってたよ、それでいずれにしても抗がん剤で治療をするみたいだ。

幡垣
とにかく手術後の検査の結果が分ったら、連絡してよ。
何しろこの病気のことでアドバイスが出来るのはオレだけだから。
この病院は良い病院だけど、専門医がいるわけではないし
最後に、病院を決めるのは、家族と本人だから。

森田
わかった、ところで息子はどうなのよ?

幡垣
がんばってるよ、学校にも母親の車で登校している。
自分で歩く体力がまだ無いみたいだから・・・
2004年2月までメソという抗ガン剤を飲まなきゃいけないんで、
体がつらそうで肝機能が疲れているみたい、
毎日かったるそうにしている。
でも何か知らんけど、学校には行きたがっていて、
心は晴れやかみたいだわ!(笑)

二週間後の病院内で。
森田
結果がでたよ。

幡垣
それで。

森田
何かB形腫瘍でT形が少し混じってるらしいんだ。
治療は、ま〜傷口がふさがってからはじめるらしいんだ。

幡垣
そうか、だとすると日本人には少ないタイプのリンパ腫だな。
それでどんな薬使うのか決まったのか?
薬の名前と治療法のプランの細かい説明は無いのか?

色々と話を聞いた上での私なりの結論!
「こいつは今のままでは軽くやばい。」
なぜならば国立立川病院は救急医療の病院。
癌の専門医療の病院では無いと言うことは否めないのでした。

そこで本人に、事の重大さを話そうと試みるが
なかなか本題に入れず、何度も病院に足を運ぶことになる。
しだいに森田君も変だなと気づき始める。
築地にある国立癌センターにいくことを勧める。
最初は立川で治療を考えてた森田君も真剣に私の話に耳を傾けてくれた。

明日につながる第一歩!
森田祐和、国立癌センターへ紹介状を持って治療の第一歩を踏む。
最初は治療のための検査が始まる、立川国立のカルテはまったく参考にしない。
一週間に一度の通院が始まり一からの検査が一ヶ月以上も続くのである。
6月の末になって検査結果が出た。なっなっなんと!3種類の型が判明。

森田
や〜 まこちゃん、行って良かったよ。違う型が見つかったよ。
あそこはやっぱちがうな!

幡垣
いつから治療が始まるのよ?

森田
7月中旬過ぎ。
私は思った。治療がどんなに大変かは、息子の治療で知っていた。
がんばって耐えて欲しいと願うばかりだった。

2003年
八月初旬・福生七夕で中学時代の同窓会開催!

福生七夕祭りの日にある居酒屋でミニ同窓会が開催された。
幹事は何と森田君だった。
同級生は、森田君が悪性リンパ腫だと、
分っていながら彼に幹事を頼んで集まった。
同級生のほうがよっぽど悪性だった。

その時すでに森田君は治療の中で髪の毛は無かった。
座っているのもつらそうにしていた。
指の先まで痺れが来ていて、体がだるいと言っていた。
でも私は、そんなことは、知ったこっちゃなく、大はしゃぎだった。
少し遅れて、みたことのあるハッピ姿のおっちゃんが店に入って来た。
みんなは大歓迎で彼を迎えた。私はこいつ誰だっけと思った。

その他同級生
いや〜よく来た、せ〜ちゃん忙しいのにわり〜な〜 せ〜ちゃん!

その人は田村酒造専務、田村誠一郎君だった。
彼もまた、中学時代の同級生でした。


森田君と田村酒造の田村君

季節は8月末日。

森田君に電話した。
彼は抗がん治療に耐えられず、吐き気が止まらず、
精神科の治療を受けていた。
体力も低下していて、築地まで通う気力が無いという。
私はダメかもしれないという思いをうち消すように、
思案に暮れた。何か良いアイデアは無いものかと・・・・
そうだ、この手があった。
そう思い私は息子直太郎に彼を会わせた。
同じ苦しみをしたもんでなきゃ〜話にならんでしょうから。
二人は、なにやら色々と話をしたみたいです。
私は直太郎に聞きました。
「あのときお前、森田のおじちゃんに何をいったんだい?」
「あ〜あのときね、病気は気合いで直すんだよ、
気合いだよっていったんだよ。」

「それだけか?それだけ!」

「あと、気持ち悪いときの吐き方も教えてやった。」

「そうかわかった、よくわかった!」

とにかく、経験者でないと何とも言えない話でした。


そして数日後、森田君は治療を再開し2月に見事治療を終えました。
この間のお話は、森田裕一・悪性リンパ腫治療の軌跡で、本人から
お話をして頂きます。

森田裕一・悪性リンパ腫治療の軌跡へリンク!


2004年4月


3月中旬を過ぎしばらく森田君とも連絡を取らず、
私も忙しい日々をおくっていました。
4月中旬気候もよくなったので息子のリハビリもかねて
地元昭島を散策する旅を計画、実行。
続いて玉川上水探訪する計画を立てました。
そして森田君におそるおそる電話しました。
何よりも気になっていたことは、数ヶ月間のうちに容態が
悪くなって、再発などしていないか心配でした。

幡垣
もしもし、もりっちゃんか、元気か!
森田
お〜 まこちゃん、元気だよ!
幡垣
よかった。しばらく電話してね〜もんだからさ〜
森田
そっちが忙しいっていうの知ってるからこっちも連絡しなかったんだ。
ホームページ見てるよ、相変わらず熱いな〜
幡垣
そんでさ〜今度の24日日曜日、玉川上水散策するから付き合ってくれよ。
また田村酒造に行きたいんだけど、もりっちゃんも付き合ってくれよ。
田村分水を取材したいんだ。
森田
なんだそんなことならお安い御用だ。
幡垣
じゃ〜楽しみにしてるから。

いよいよこれからが本題。
さて、この物語は単なる闘病生活の話と思いきや、
これから先の話が本筋なのです。

読者
え!今までの話は前置きなの?

幡垣
そうなんです、実は・・・ぼそっと。

読者
なげ〜そんで、あんた何が言いたいの。

幡垣
はい、今からそれをお話しいたします。

田村分水取材を森田君の息子さんも連れて行くことになった。
元々が、息子を連れて散歩に行く予定だったらしいのです。
車いすが乗る専用車で、田村酒造へ向かうことになりました。
こんなに彼と、長い付き合いをしていながら、初めて、息子さんと会ったのです。
小学3年生の健也君はとても明るい、人なつっこい性格で
「やっぱり、もりっちゃんの子だな〜なんて思いました。」

先ず車いすを車に乗せるということは、
一口で言うと簡単そうなのですが、
この専用車、車体がリモコン操作で沈んでいくんです。
そして安全装置とベルトが、至るところにあって、
点検マニュアルの多さにビックリ!
色々と彼の大変さが解るに従い、
その場での口数が少なくなる私でした。
でも健也君はとても外に出られることが
嬉しそうでそれを見ていると、なんとなくですが
気持ちが軽くなったように思えました。

田村酒造敷地内は、よく整備されていて池もあり公園のようでした。
取材を終え、すぐ帰ろうと思ったのですが、
彼は何かまだ、話がありそうな顔をしていましたので、
森田君の自宅兼、貸衣装店ことぶきやに、寄ってみました。
障害を抱えながらも 実に明るい健也君です。 私の息子、直太郎に話しかけるのは いつも健也君でした。 小学校三年生と5年生は 実に屈託のない会話をしていました。
海外に子ども用の車いすを送る構想とは?
幡垣
車いすで外へ連れ出すのは大変な作業だね〜・・・。

森田
普通の人なら車に乗って、出て終わりだろ〜
ところが車に乗せるだけで大仕事になっちゃうんだよ。

幡垣
普段、ご飯なんかは自分で食べてくれるのか?

森田
しぐさをする程度かな、やらせてはいるけど、
もうテーブルの上はぐちゃぐちゃだわ。
実質誰かが食べさせてあげることになるな!
風呂も入れてあげないと一人で入れないし、
だからほんと疲れるのよ!
そんな生活が8年近く続いていることになるんだけど、
これが当たり前の生活だと思ってるんだ。
だってよ〜 まこちゃん、こいつから随分と
知らない世界を教えてもらったからな。

幡垣
確かにそうだ、俺も随分と息子には勉強させてもらった。
いつも直太郎の口からとんでもないメッセージが届くことがあるから
聞き逃しなく記憶にとどめおくようにしているんだ。

森田
それでさ〜俺もこんな病気になっちまって、取り合えず今は元気だけど、
いつ再発するかわかんね〜し、子供に対しても今やれることを
やって上げとこうと思って、この2ヶ月間、
部屋の中を改築してバリヤフリーにしたり
エレベーター付けたり、特注車椅子搭乗車購入したり、
借金抱えて大変なんだ。

幡垣
そうだとは思ってたけど、実際に見て凄い苦労してるなと感じたよ。
でも普段の君からは、みじんも感じさせないからホント感心するよ。

森田
いや〜まこちゃんの影響を大分うけていると思うよ!
実は俺さ〜元気なうちにやりたいことがあんのよ。

幡垣
こんな大変な状況でまだやりたいことがあんのか、何がしたいのよ!
いよいよ本題に入ります。
森田
おれの息子、車いすでないと外に出られないだろ!
それで随分前から考えていたこと、あるんだけどね。
子供は、成長して体が大きくなると車椅子を
どんどん大きいものに変えていくのよ!

幡垣
あ〜言われてみれば当たり前のことだよな!
なんか小学生の時って自転車買っても
2年ぐらいすると、すぐ小さくなって、
3台ぐらい買い換えたような気がする。

森田
そうなのよ、幼児の頃から障害があると車いすも
買い換えるもんなんだわ!

幡垣
そうすると、使わなくなった車椅子はリサイクルするんだろ?

森田
そう思うだろ、ところがだ、そのほとんどが廃棄処分されているんだわ。

幡垣
うそだろ、危険物・燃えないゴミなのか?

森田
そうなんだ。そこで俺は考えたんだけど、
その使わなくなった車いすを東南アジアへ送れないかと考えたんだ。
インターネットで調べたら京都にそのようなことをしている
ボランティア団体が一つだけあって、その団体と色々と話をしたんだ。
幡垣
へ〜、それで。
森田
そしたら、持って来てくれるなら、
いくらでも送ることは出来ますけど、
こちらから車いすを取りに行くことは出来ません。
持って来てもらえるんならば、いいんですけど、
むりですよね!と言われた。

幡垣
う〜ん、なるほど、それでなんて答えたの?

森田
むりですよね!なんて言われると、
メラメラと闘志が湧いて来ちゃって、
もってって、やろうじゃねいの!(きっぱり!)

なんていっちゃった。(二人笑う)

幡垣
だよな〜 そんでどうした。

森田
佐川急便やクロネコヤマトに話をしたんだけど、
いい返事はもらえなかった。

幡垣
話だけでは、ま〜誰が聞いてもらえても、返答しないだろうな〜
一度でもいいから実行して実績をつくらんことには
企業としては話に乗っても、くれんだろう〜
でも本気なんだろ!

森田
あ〜本気だ、与えられた時間は少ないと思っているから俺は急いでんだ。
いずれはNPOみたいな本部を東京に創設して直接送れるようにしたいんだ。

幡垣
分った。じゃ〜俺も何か、君を支援する方法を考えてみるよ。

と、言う話を皆さんに聞いてもらうために
随分と長くなってしまいました。
な〜〜げ〜〜 なげ〜 なげ〜(エコー)

私、(幡垣)はここで何かアクションを起す方法として
森田祐和君の物語をホームページで紹介して、
このことを世の中の人に知ってもらい
たくさんの支持者を集めて協力を得るということでした。
今時は、みんなブログを使ってやっていますが、
筆者はこの時、まったく考えつきませんでした。

2004年5月1日物語制作開始!
「海外に子ども用車椅子を送る会」はこの時、産声を上げたのでした。

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